サヴォイア家について

サヴォイア家の変遷 伯爵家から王家、そして現代へ

ヨーロッパで最も古い王家のひとつであるサヴォイア家は、2003年にその創設から千年を迎えました。その血統は、1003年に生きた歴史上の人物「ビアンカマーノ(白い手)」ウンベルト1世に遡ります。彼は、サヴォイア地方の強力な支配者としての地位を確立し、その後10世紀にわたって彼の子孫が拡大し続ける土台を作りました。
歴代の当主は1415年に伯爵から公爵に昇格し、1713年にはシチリアを治めるようになって王家としての地位を確立しました。その後、シチリアの王位はサルデーニャの王位と交換され、サヴォイア家はピエモンテ・サルデーニャ王国を統治することになりました。1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一を主導し、その過程でサヴォイア地方をフランスに譲り、彼と彼の子孫は1946年まで統一イタリア王国の君主として君臨しました。

サヴォイア伯爵家(1003年〜)

ローマ人はサヴォイア地方をSaubaudaと呼んでいました。5世紀にローマ帝国が滅亡すると、ブルゴーニュ人がこの地方を制圧し、自分たちの領地に併合しました。その約1世紀後にフランク人がブルゴーニュ人に続き、9世紀には、サヴォイア地方はフランク人の皇帝シャルルマーニュが治める神聖ローマ帝国にとって欠かせない存在となりました。皇帝とその子孫は、この地域を領地や郡に切り分けました。さらにその後、カロリング朝が崩壊すると、サヴォイア地方は再びブルゴーニュ王国の領域となりました。この地域の領有権をめぐっては、それぞれの地域を支配する小貴族たちが頻繁に争いを繰り広げました。

サヴォイア家の創始者である「ビアンカマーノ(白い手)」ウンベルト1世は、970〜80年頃に、チュートン系の祖先のもとに生まれたといわれています。神聖ローマ帝国の騎士として、皇帝コンラート2世がブルゴーニュへの領有権を固めるために行った作戦に協力しました。「ビアンカマーノ」という彼のあだ名の由来は記録になく、様々な憶測を呼んでいます。色白だったという説と、アルプスの気候のため手が雪のようだったという説があります。さらに、彼の城の特徴であった「白い壁」の誤訳という説もあります。

1003年には、皇帝からViennois地方のSalmourenc伯爵の称号を賜っています。1017年には、レマン湖畔のNyon郡を手に入れ、さらに、アルプス山脈の戦略的な峠を持つ、現在のVal d’Aostaと呼ばれる領地を次々と手に入れました。1034年には、Savoia、Maurienne、Belley、Chablisの一部、Tarantaiseの各郡を支配下に置きました。これによりウンベルト1世は、Cenis山と2つのSt. Bernard峠という3つのアルプスの峠へのアクセスを支配することとなりました。

この初代サヴォイア伯爵は、後に聖マウリツィオ・ラザロ騎士団の歴史に大きく関わることになるSt. Maurice d’Agaune修道院の長の娘と結婚しました。ウンベルト1世は、サヴォイア地方に家の基盤を築き、その戦歴により有能さを広く証明しました。同盟関係が不確かでさらに寿命が短い時代にありながらも、彼はサヴォイアとその周辺地域を平定し、修道院や教会の慈善活動に力を入れ、成功した長寿の生涯を送りました。1048年に死去すると、St. Jean de Maurienneの大聖堂に埋葬されました。

サヴォイア公爵家(1415年〜)

第19代アメデーオ8世は、父アメデーオ7世が狩猟中の事故をもとに急死を遂げたため、8歳の幼さで即位することになりました。若すぎる王子の立場は危ういものでした。サヴォイア家がもつ戦略的な重要性から、彼は皇帝、教皇、フランスの間での地政学的な争いに巻き込まれることは避けられませんでした。しかしながら、幸いなことに、若い王子は確固たる決意をもち忠実な貴族たちに恵まれていたため、サヴォイア家の利益を守ることができました。

王子は成長し、Bourbon、Berry、Burgundyの各公国の野心に対抗することに成功しました。1398年に成年に達したとき、ジュネーブ伯爵家の相続人たちによる後継者争いを忠臣たちを率いて阻止したことが、彼の洗礼となりました。彼は、結婚によって重要な同盟者を得る必要性を認識し、Burgundyのマリーア姫を花嫁として選びました。このようにして、知的で真面目、愛想がよくて胆力のある若きサヴォイア家の第19代伯爵は、列強の干渉をほとんど受けないままイタリアとニースでの支配を拡大することができました。1401年から1422年にかけ、彼はジュネーヴとアヌシー周辺を回復するための作戦を行いました。そのためにBurgundy、FreiburgとBerneの両州と条約を結び、ミラノ公を義理の息子としました。

1415年、神聖ローマ皇帝ジギスムントはサヴォイア国を公国に昇格させ、アメデーオ8世はその初代公爵となりました。この新しい公国は、彼の親戚であるピエモンテ公ルイ(ピエモンテ王朝を築いたトンマーゾ2世の最後の子孫)の死によってさらに拡大されました。

サヴォイア王家 シチリア王国、サルデーニャ王国(1713年〜)

第15代公爵ヴィットーリオ・アメデーオ2世は1666年にTorinoに生まれました。彼はわずか9歳で父の跡を継ぐこととなり、母マリーア・ジョヴァンナ・バッティスタが摂政を務めました。当時はヨーロッパにとって激動の時代でした。フランス王ルイ14世は、ヨーロッパで最も偉大な君主になることを目指し、ブルボン家の永遠のライバルであるハプスブルク家を打破せんとする壮大な目標を掲げていました。

策略と政治を得意としたヴィットーリオ・アメデーオ2世は、サヴォイアの独立を維持するために、何度も鞍替えを繰り返しました。彼の同盟関係は柔軟でした。彼の娘のうち2人がルイ14世の孫に嫁ぎ(1人はブルゴーニュ公の妻、もう1人はスペイン王フィリップ5世に嫁ぎ)、彼自身もフランス王の姪と結婚していましたが、必要な時にはフランスに逆らうことを躊躇しませんでした。1703年、帝国軍との同盟により、フランス軍はTorinoを占領しました。ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、従兄弟で当時最も優秀な軍事指導者の一人であったサヴォイア公オイゲン陸軍大将の支援を受けて、なんとか首都を解放しました。

ヴィットーリオ・アメデーオ2世はTorinoの解放を祝福し、Torinoに王立Superga聖堂を建てるよう命じました。続いて、NiceとSusaもフランス軍から奪還されました。1713年、ユトレヒト条約によってスペイン継承戦争が終結し、Monferratとシチリア王国がヴィットーリオ・アメデーオ2世に贈られました。こうしてサヴォイア家は「Majesty」の格を持つ、王家となりました。1718年、シチリア王の称号はサルデーニャ王の称号と交換され、彼とその後継者たちは1861年にイタリアが統一されるまでこの称号を保持することになりました。

サヴォイア王家 イタリア王国(1861年〜)

国家の統一 イタリア王家(1861年〜)
カヴールは、両シチリア王国のブルボン王家を排除し、新しい国家に吸収する計画を続けていました。国王フェルディナンド2世は1859年に死去し、若い未婚の息子である国王フランチェスコ2世が後を継いでいる状況でした。カヴールは、ジュゼッペ・ガリバルディが率いる何千人もの「赤シャツ隊」がシチリアに侵攻する軍事遠征を密かに計画し、資金を提供しました。ガリバルディとその従者たちはシチリア島に上陸し、瞬く間にブルボン家の軍勢からシチリア島を奪取しました。その後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は両シチリア王国に入ってガリバルディと出会い、ガリバルディは独裁者としての権限を国王に譲り渡しました。すぐに国民投票が行われ、シチリア島をイタリアの新しい王国に編入することが承認されました。こうして1861年2月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一イタリア王国の初代国王に即位しました。

現代のサヴォイア家(1946年〜)

第二次世界大戦で敗戦を期したあとの1946年6月、イタリア王国は共和制へと移行し、イタリア共和国となりました。最後の国王ウンベルト2世の後を継いだのは一人息子のナポリ公ヴィットーリオ・エマヌエーレ王子(1937年生まれ)であり、サヴォイア家の第26代公爵、サヴォイア諸騎士団の大総長です。ウンベルト2世の孫のエマヌエーレ・フィリベルト王子(1972年生まれ)は、騎士団評議会の議長を務めています。また、ユーゴスラビアのアレクサンダル王子と結婚したマリーア・ピア王女、マリーア・ガブリエッラ王女とマリーア・ベアトリーチェ王女の3人の娘もウンベルト2世の意思を継いでいます。

1983年の父の死後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ王子は、サヴォイア家の伝統である人道的・慈善的活動の伝統を継承し続け現代社会の状況変化に対応するため、騎士団の規約を改訂しました。

2022年、サヴォイア家現当主ヴィットーリオ・エマヌエーレ王子は、次期当主エマヌエーレ・フィリベルト王子の後継者としてヴィットーリア王女を正式に認定しました。長年の伝統を破り、次の次の当主として娘を指名したことは、単なる家族の決断を超えた意義を持ちます。この前例のない選択は、男女平等の精神を体現し、女性の社会進出とリーダーシップの新たな時代を象徴しています。サヴォイア家の決断は、伝統と現代の価値観が調和するモデルを示し、次世代へを切り開く光となるでしょう。